2013年2月27日水曜日

ミャンマー宣教史―カチン族を中心に:1800-1900年

カチン族には、バプテストの人たちが多いことを以前書きました。カチン族について理解するためには、彼らの宗教的な背景を知っておく必要があると思いました。

そこで、どうして、カチン族の間でバプテストが増えたのか、まとめてみました。

 1700年から1800年にかけては、ミャンマー(ビルマ)における宣教は、カトリックによるものであった。特に、イタリヤの「聖パウロ律修聖職者会」(Clerici Regulares Sancti Pauli)による働きが多きかった。しかし、ビルマにおける内戦や、教皇庁によるビルマ伝道の二分化などによって、1700年代半ば、その伝道は力を失っていく。結果として、カトリックの伝道は、ビルマ族など仏教徒にとどまり、カチン族などの少数民族には宣教がなされなかった。
 1800年代に入ると、プロテスタント教会がミャンマーの宣教に着手し始めた。その宣教は、カトリックと同じく、ビルマ人に対するものであった。まず、1807年、イギリス領インドのプロテスタント教会が、Marden Chaterをビルマに宣教師として派遣した。しかし、まず、Mardenが短期間で帰国し、ついでChater1812年の国内政情不安によって、帰国した。Chaterの後任となったFelix Careyは、William Careyの息子であったが、宣教に挫折し、ビルマのアヴァにいるBodawpaya王のもとで公務につくことを選んだ。その後、アメリカに宣教のバトンが渡され、バプテストの宣教師アドニラム・ジャドソンがビルマ、ラングーンの土を踏むのが、1813713日である。ジャドソンも、また、当初はビルマ人に伝道を行っていたようである。しかし、1827年、カレン族にジャドソンが初めて接触し、1828年にKo Tha Byuという、もと強盗殺人犯が回心した。Ko Tha Byuは、カレン族へのカレン族による初めての宣教師となり、12年間で、1270人のカレン人がバプテスマを受けたのであった。
 カチン族への宣教が始まるのは、ジャドソンがカレン族に接触した、10年後、1837年のことであった。この年、Euginia Kincaidというバプテストの宣教師が、北部ビルマのMogawngにおいて、初めてカチン人と出会った。彼は早速、アメリカの宣教団体に、宣教師派遣を要請する手紙を書いた。その要請にこたえ、1878年、Albert J. Lyonが、北部ビルマに派遣されることになった。しかし、LyonBhamoに到着するや否や、滞在1カ月でマラリヤに罹患して病死した。カレン族の伝道師や、シャン族への宣教師Josiah Cushingと協力して、カチン族に伝道する計画であった。
 1878年のLyonの死は、カチン族宣教への礎となった。米国において、カチン族に対する宣教が急務であるというアピールがなされたのだ。それに応じたのが、イリノイ州で牧師をしていたWillam H. Robertsであった。1879年、彼は妻とともにBhamoに出発した。カレン族の伝道者とともに、Bhamoで働いた。しかし、政情が不安定であったこともあり、当初の伝道は困難を極めた。当時の宣教レポートに、その時の困難が赤裸々につづられている。強盗、襲撃、宣教師館の破壊、夫人の病死などについてである。さらに、夫人の死のために、一時、帰米を余儀なくされた。しかし、再婚して、1881年、再びカチンのもとに向かった。今度は、新たにカチン族の宣教師として任命されたKronkhite夫妻が同行した。Robertsは、Bo Gale Shue linS’pehKo theやアメリカの宣教師などと共に、カチン族に対する宣教を行い、困難な時期を経て、ついに大きな成功を収めた。1882319日には、7人のカチン人が回心し、バプテスマを受けた。その7人とは、老齢のBawmung La夫妻とその息子夫妻、Nangzing Yung夫妻、Lazum Kaw Lum、そしてGawlu Hatng Yawngという奇形の男性であった。カチン族の最初の実である。バプテスマの後に、Roberts一家は、他のアメリカの宣教師たちやカレン族の伝道者などと共に、初めて主の晩餐を持つことができた。
 7人のバプテスマの後、宣教は大きく拡大した。バプテスマを受けるための基準は高かったのにも関わらず、バプテスマを受ける人々が続々と起こされた。カチン族に対する教育も、このころ発展している。Roberts一家によって、最初の小学校がつくられ、カチンの子どもを教育し、生徒たちとビルマ語からカチン語へ、マタイ伝を翻訳した。18901222日、新たな宣教師Ola HansonBhamoに到着すると、ローマ字をもとにして、カチン語のアルファベットをつくった。これが、カチン語文字化への初の試みであった。1890年には識字率が0パーセントであったが、その後100年以内に100パーセントになった。Olaは、更に、11000語を収録するカチン語-英語辞書や文法書などを編纂し、聖歌と聖書の翻訳、作曲、典礼文作成なども手掛けた。

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